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デジカメを持って 西へ東へと・・・



19日の日曜日、午後から用事が有って市の生涯学習センターを訪れたら
学習センター横のキュービックギャラリーと壁面を使って
「中村久子パネル展」が開かれているのに気が付いた

初めて聞く名前だったので、どんな女性なのか生い立ちを見てみると
彼女は明治30年この世に生を受け、3歳の時に霜焼けがもとで
「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかり
両手両足を失うと云う、誠に痛ましい出来事に見舞われました

7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり
母は久子さんを連れて再婚しましたが
当時の社会は、まだまだ身障者に対する理解は薄く
手足のない彼女を見る世間の目は誠に冷たいものが有り
このような子供が生まれてきたたのは、何か祟りか
罰が当たったのだと、信じられていて
当然母の再婚先でも、彼女を決して温かく迎えてはくれず
いつも二階の小さな部屋で、身を隠すような日々を送っていたそうです

彼女の母はそんな我が子を、何としても一人で生きていける子に
してやらねばと、彼女に厳しいしつけをするようになり
母は「出来る迄やってみること、やれないことはやってみないからなの」
と言うので部屋の掃除・火を起こす事・寝具の上げ下げ等出来る迄やりましたが
しかし、「どんなに苦心して何十回、何百回やっても出来ないのは
着物を着たり、帯を結ぶ事、髪を結う事
これだけは出来ませんでした」と書いて有り
その母の厳しいしつけに依って、彼女は食事、トイレ
風呂といった身の回りのことはもちろんの事
裁縫、編み物、炊事、洗濯さえも出来る様になったそうです

月日は流れ、20歳になった久子さんは、小父さんの勧めもあって
見せ物小屋で働くことになり、 見せ物興行に身を置いた彼女は
「だるま娘」という看板芸人として、裁縫や編み物
そして口で筆をくわえて字を書くといった芸を演じ、忽ち人気者になっていき
両手の無い体での裁縫や編み物を見せる芸で生活費を稼ぎながらも
「恩恵にすがって生きれば、甘えから抜け出せない
一人で生きていかなければ」と決意し、生涯を通じて
国による障害者の制度による保障を受ける事は無かっと云われている

そして1937年(41歳)に、東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会い
ヘレン・ケラーに「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛され
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め
全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えたと書いてあった

これらの文章を読んでいて目頭が熱くなり
胸から何か、込み上げて来るものが有って
暫く自分の人生を振り返ってみる事が出来た

また最後の所には、下記の様な彼女の言葉が掲げてあった

どんな所にも、生かされてゆく道がございます

人生に絶望なし、いかなる人生にも決して絶望はない

人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるの

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(トランジションのソースは熊子さまからお借りしました)




2012.02.21 / Top↑
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